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日本茶祖:荣西禅师

作者:来源  来源:茶街道   更新:2015-6-18 10:46:16  点击:  切换到繁體中文

 


「茶は養生の仙薬なり…」ではじまる『喫茶養生記』を著し、お茶を日本に広めた人、栄西禅師。現代、あらためて健康によいと注目されているお茶の効能を、はじめて日本人に知らせた人物です。日本の茶の歴史は栄西の伝法とともに始まりました。


《吃茶养生记》起首写道:“茶乃养生之仙药” ,写下这部著作、使茶叶在日本发扬光大的人是荣西禅师。现代,茶叶健康的益处再次引起人们的关注,而最初将其介绍给日本人的便是荣西。日本茶的历史是伴随荣西对佛法的传播而拉开了序幕的。


荣西禅师


栄西 宋の国へ行く


鎌倉時代の禅僧栄西禅師は日本臨済宗の開祖で千光国師ともいわれます。備中(岡山県)吉備津宮神主賀陽(かや)氏の出身で、誕生は保延7年4月。幼少のころから抜きんでた英才と伝えられており、11歳で安養寺の静心に倶舎婆沙二論を学び、13歳で比叡山に登り、14歳で落髪。その後ももとの安養寺で修行し、19歳で再び叡山に登り台密の教えを学びました。


荣西 前往南宋


镰仓时代的禅僧荣西禅师也被称作日本临济宗的开祖—千光国师。他系备中吉备津宫神主贺阳氏出身,生于保延7年4月。相传,他幼年时便天资卓凡,11岁时在安羊寺潜心修习俱舍婆沙二论,13岁前往比睿山,14岁入佛门。此后又重返故地安养寺修行,19岁时再度登上比叡山学习台密。


注: (1)台密,即天台宗传播的密教,与真言宗的东密相对,由最澄法师及其弟子圆仁、圆珍所创,密教以诸佛诸尊为本尊,以手结印(身密)、口诵陀罗尼(口蜜)、心为佛的心境(意密)。(2) 比睿山,805年(延历24年),留唐僧人最澄在比睿山开创日本的天台宗,比睿山延历寺为其本山。


若き栄西は、仏教の源である宋の国へ渡り、大陸の正法を学んでわが国仏教の誤りを正したいという強い願いをもっていたようです。時代は保元の乱が勃発し源平めまぐるしく変わる混乱の世。栄西が入宋を望んだ時代は、遣唐使などの大陸渡航が絶えて300年の月日が経ち、渡海は決死の覚悟と資財を要する一大事でした。しかし、困難にもかかわらず、栄西27歳の仁安3年(1168)4月、播磨の唯雅を伴って博多を出帆、入宋に成功します。あこがれの地で天台山万年寺、阿育王山に詣で禅宗への理解を深め、同年9月、天台の経巻60巻を携えて帰朝したました。帰国後は、その経巻を天台座主明雲に呈し、故郷備中、備前を中心に伝法につとめたといいます。


年轻的荣西怀有一个强烈的心愿,那就是远渡南宋,在中国学习佛教正法后,更正日本佛教中存在的谬误。时值保元之乱爆发,正是源平争乱、时局瞬息万变的乱世。从停派遣唐使往大陆时算起,到荣西希望前往南宋的时代已经历了300个春秋,航海是件非同小可的事,需要葬身鱼腹的觉悟和大笔盘缠。尽管困难重重,仁安3年(1168)4月,27岁的荣西还是与播磨的唯雅结伴同行,从博多挂帆远行,成功入宋。在这片期盼已久的土地上,他参诣了天台山万年寺、阿育王山,加深了对禅学的领悟,同年9月,荣西携天台经卷60卷回国。归国后,他将这些经卷呈现给天台座主明云,自己以故乡备中、备前为中心一心传布佛法。


帰国後、栄西は、インドへ渡り釈迦八塔を礼拝したいという願いを抱くようになり、再び渡海を試みます。文治3年(1187)に宗国の首都臨安に到着し、インド行きは治安が悪いため、やむなくあきらめました。しかし帰国のために乗船したところ、逆風で浙江省瑞安に上陸。それを機会に天台山万年寺で虚庵懐敞(きあんえしょう)に出会い師として学びました。さらに天童山景徳禅寺で臨済禅を学び、4年後の建久2年(1191)宋人の船に便乗して帰国しています。この2回の入宋のうち、いずれの折に茶種を持ち帰ったのかは定かではありません。ただ、はじめて栄西が持ち帰った茶の種を捲いたのが、肥前と筑前の境界の背振山であり、2回目の帰着が肥前平戸島であることから、2回目の帰朝で持ち帰ったと考えられているようです。


回国后,荣西又渐渐萌生起前往印度瞻仰释迦八塔的愿望,试图再渡重洋。文治3年(1187),他到达南宋都城临安,然而因为前往印度的路途治安混乱,只得放弃。而就在他乘上归国的航船离开时,遭遇了一场逆风,因此在浙江省瑞安上岸。因此机缘,荣西在天台山万年寺遇见了虚庵怀敞,拜在其门下学习。后又在天龙山景德禅寺学习临济禅,4年后即建久2年(1191),荣西乘宋人的船返归故土。在他两度入宋的期间里,虽不能确定带回茶种是在何时,但他首次播种带回的茶种是在肥前与筑前交界的背振山,而第二次回国的地点是在肥前平户岛,由此可知,茶种是在第二次回国时带来的。


注:前往印度的著名人物是平城天皇皇子高丘亲王,他在“药子之变”中遭废黜,出家成为僧人,862年来到中国,3年后前往印度求法,此后消息不明,相传他死于印度半岛的罗越国。


荣西禅师


茶の栽培


栄西は茶の実を持ち帰るとすぐに捲いたようです。これは茶種の寿命は短く、夏を越すと70~80%は発芽力を失うこと、茶の栽培にどのような土地が適しているのかなどについて栄西はよく心得ていたのでしょう。茶種を捲いたと伝えられる場所の調査によると、その周辺には大きな寺跡があり、古い茶園も認められるといいます。栄西は布教とともに茶の栽培も積極的に行っていたことがわかります。栄西が茶栽培を推進した理由は、中国の4年間の生活で茶の養生延齢の効力を認めたからということと同時に、その不眠覚醒作用が禅の修行に必要であり、禅宗の行事に茶礼が欠かせないことも、その普及の動機の多くを占めていました。


茶叶栽培


荣西带回茶种后不久便将其播种到地里。或许是因茶种的寿命极短,一过夏天便会丧失70%至80%的发芽能力,而荣西对哪片土地适合种茶是谙熟于心的。人们对传说中播下茶种的地方进行一番调查后发现,在其周围有大型寺院的遗迹,这些地方也被断定为古老的茶园。可见荣西是一边传布佛法,一边积极进行茶叶栽培的。关于荣西推动茶叶栽培的理由,既有在中国生活的4年间,荣西认同了茶有养身延年之效的缘故,也因茶叶的醒神功效对禅宗的修行必不可少。荣西还认为禅宗的仪式中不能缺少茶道礼节,这条理由也在他普及茶种的动机中占了很大部分。


注:中国禅宗史上也有一位极其推崇饮茶、嗜好喝茶的高僧,即赵州和尚,关于他有段著名公案“吃茶去”。


荣西禅师


明惠上人


栄西と明恵上人の出会い


政治と結びつきながら日本流仏教が定着していた鎌倉時代に、宗から帰った栄西は、持ち帰った臨済の布教活動で、さまざまな政治的妨害を受けます。しかし栄西は禅の教えは国を守っていくものであるとする『興禅護国論』などの書物を著し、二代将軍頼家の帰依と庇護を受け、元久2年(1205)京都に最初の禅寺建仁寺を完成し第一世となり禅宗を広める土台を築きました。その2年後、明恵上人が京都栂尾(とがのお)に華巌宗の興隆を願って高山寺を中興し、たびたび栄西を訪れ問答をしていたといいます。


注:明惠上人,镰仓时的名僧,1206年在京都栂尾山创建高山寺,将荣西带来的茶种播种于栂尾山,形成茶园。


荣西与明惠上人相遇


镰仓时代,与政治结合的日本式佛教固定下来。从南宋回来的荣西在将带回的临济宗教义传授世人时,便受到来自政治的各种阻碍。不过荣西写下《兴禅护国论》等书,阐明禅宗是镇护国家的教义,他接受镰仓二代将军赖家的庇护与皈依,元久2年(1205),他在京都建立首座禅宗寺院——建仁寺,成为首任主持,在这里构筑起广布禅学的基础。2年后,明惠上人在京都栂尾为华严宗的兴隆发愿,中兴了高山寺,他常常拜访荣西,和其对谈问答。


注:荣西传播禅宗的活动受到比睿山等地寺院的阻挠,1194年(建久5年)镰仓幕府令荣西停止传道,于是荣西写成《兴禅护国论》,强调禅宗也存在吟诵护国佛经的活动,以求幕府支持。


建仁寺


荣西禅师


栄西は、明恵に茶の薬効を話し、喫茶をすすめ、茶の実を栂尾(とがのお)に送ったのではと考えられます。さらに注目すべきことは京都の栂尾における茶栽培です。その後2世紀にわたり、栂尾における茶の栽培は盛んで、栂尾の茶を本茶、それ以外のものを非茶と称したほどだといいます。宇治以前の茶名産地が栂尾であったことがわかります。


荣西对明惠谈起茶的药效,建议他饮茶,希望将茶种送到栂尾。更值得瞩目的是京都栂尾的茶叶栽培。经过此后的两个世纪,栂尾的茶叶栽培蒸蒸日上,人们甚至称栂尾的茶为“本茶”,其余地方的茶则为“非茶”。宇治以前的茶叶名产地是栂尾。


栂尾山的茶园


荣西禅师


喫茶養生記


栄西は日本に茶生産を広めるため、またその薬効を知らせるために、承元5年(1211)『喫茶養生記』を著します。この書物は上下二巻からなり、茶の薬効から栽培適地、製法まで、細かく記されています。また、森鹿三氏の解説によると、喫茶養生記には初治本と再治本があり、再治本は、この3年後の建保2年(1214)1月に書写し終ったといいます。


吃茶养生记


为了将茶叶生产遍布到日本各地,同时也出于让大众了解茶叶药效的目的,承元5年(1211),荣西写下《吃茶养生记》。这部著作由上下两卷组成,从茶的药效到适合栽培地,乃至制作工序,都被详细记录在书中。另据森鹿三的解释,《吃茶养生记》的初治本与再治本,再治本写讫于3年后的建保2年(1214)1月。


お茶の効能について記した最古の記述は、鎌倉時代の記録書として有名な『吾妻鏡』。建保2年2月の条に、将軍実朝が宿酔(二日酔い)の際、栄西禅師から茶とともにこの書を献ぜられ、喫したところたちまち治癒されたと伝えられています。このことによって、上流階級の間で茶がもてはやされたことは言うまでもありません。栄西は、再治本を記した翌年の建保3年(1215)7月、寿福寺にて没しました。


镰仓时代作为记录书闻名的《吾妻镜》中,有关于茶叶功效的最古记载。在建保2年2月的一条记录里,记载将军实朝宿醉不醒时,荣西禅师将茶与《吃茶养生记》一并呈上,将军饮茶后当即得到治愈。毋须冗言,经过这件事,茶叶便在上流阶层中流行开来。建保3年(1215)7月,即写下再治本的次年,荣西辞世于寿福寺。


 

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