茶道歴史入門(日文)
信楽花入 武野紹鴎堺は、京都、奈良と並んで茶の湯を育てたところです。 町中が自由な気分にあふれ、猿楽や謡曲などの風流な芸能が盛んでした。この町から、武野紹鴎,今井宗久,千利休といった茶道史に残る茶人がでたのです。 茶道は珠光にはじまり、利休居士によって大成されたといわれていますが、この二人をつなぐのが武野紹鴎です。 紹鴎は、唐物の茶器類のかわりに信楽、瀬戸、備前などの種つぼ、塩つぼといった日用品を茶器として用いました。 珠光の佗ぴ草庵の茶をさらにすすめて、茶の湯の中に初めて「佗ぴ」の理念を打ちたてたのです。 利休「佗ぴ茶」を完成した利休居士は、大永二年堺で生まれ、幼名を与四郎といい、早くからお茶をたしなんでいます。 はじめは、能阿弥の流れをくむ北向道陳について書院の茶の湯を学びましたが、後に武野紹鴎に師事して草庵の茶の湯を歩みだしたのです。 京都の大徳寺は、お茶と縁の深いお寺です。 珠光や紹鴎のように、利休居士もまた大徳寺で参禅し、修行しています。それを機会に名も宗易と改め、姓も祖父の千阿弥にちなんで、千と名のりました。 利休居士は歌に、「世の中に茶のむ人は多けれど、茶の道を知らぬは、茶にぞのまるる」と詠んでいます。 つまり、修行がなければ、お茶をのんだつもりでも、のまれていることになりかねないということなのです。 また、「茶の湯とは、ただ湯をわかし、茶を点てて、飲むぱかりなることと知るべし」という利休居士の言葉もありますが、この言葉もきびしい修行の道の裏づけがあってはじめて言えることなのです。 こうして利休居士は、茶道の理念を大成しました。 利休居士は五十八歳の時、織田信長に召され、信長の死後、秀吉のもとで茶道をもって仕えました。茶道役といっても、実質的には秀吉のブレーンの役割を果たしていたのです。 天正十三年、秀吉が催した宮中の茶会のとき、正親町天皇からとくに利休宗易居士の勅号を賜わりました。これによって利休居士は、天下一の大宗匠としての地位を確立したのです。 宗教性この頃の茶の湯はまた、キリスト教ともかかわりがありました。宣教師として日本にきたルイス・フロイス、ジョアン・ロドリゲスらは、堺や京都にやってきて、利休居士をはじめ多くの茶人と親交をもったのです。 利休居士の高弟の中に、キリシタンがおり、利休七哲といわれる古田織部、高山右近、蒲生氏郷らは、すべて敬虔なキリスト教信者でありました。 このような宗教と茶とのかかわりは、今日に至り、「茶はあらゆる宗教の実践の場である」とする、裏千家十五代家元鵬雲斎宗室宗匠の提唱へと集約されていくのです。 茶器の改革利休居士は、すばらしい美意識の持主でした。佗びの心を生かして陶芸、工芸の世界に大きな足跡を残しました。 利休居士が佗ぴ茶を深め、それを実践するようになったのは、晩年に至ってからです。
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