文化というのは理屈ではない。正解もない。全てが相対的で、それぞれに大切なものである。プロセスだ。映画を観て、結論だけ知ろうとするのは文化ではない。その映画の中に何が描かれているのか、考えるのが文化である。理屈の通ることしか信じないという態度は、だから間違いである。合理性だけで文化は語れない。寺社や食事の前に合掌したり、節句を祝ったり、雑煮や鏡餅を作ったり、スリッパで畳に上がらない、という「かたち」が文化なので、どれにも理屈はない。『ボヴァリー夫人』を書いた作家フロベールも書簡の中で「馬鹿とは結論づけたがることだ」と書いているくらいだ。
文化不是道理,也没有正确答案。一切都是相对的,每种文化都是宝物,亦是一种过程。只是一味想知道结论的电影观赏,是称不上文化的。而去思考电影中想要表达的东西,则是一种文化。有人只相信能用道理说得通的事情,这种态度本身就是一种错误,如果只谈合理性便讨论不了文化。参拜寺庙或者吃饭前先合掌、庆祝节日、制作烩年糕或者供神用的年糕、不穿着拖鞋上榻榻米,这些“仪式”都是文化,不管哪个都不是用道理来说通的。著有《包法利夫人》的作家福楼拜也在其书信中这样写道:“愚蠢之人总是急于想得出结论。”
典型的には比較文化のこんなジョークがあって、ステレオタイプを作ることで、偏見を生んでしまう。
比较文化中有这样几个经典幽默段子,对人的评价一旦模式化后,便会产生偏见。
ある船に火災が発生した。船長は乗客を海へ飛び込ませるために、各国の人にいった。
某只船发生了火灾。船长为了让各国的乘客们跳入海中,这样劝说道。
イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士です」
アメリカ人には「飛び込めばあなたはヒーローです」
イタリア人には「さっき美女が飛び込みましたよ」
フランス人には「飛び込まないでください」
ドイツ人には「規則では飛び込むことになっています」
ロシア人には「最後のウォツカのビンが流されてしまいました。今飛び込めば間に合います」
他对英国人说“跳下去你就是绅士。”
他对美国人说“跳下去你就是英雄。”
他对意大利人说“刚刚有个美女跳下去了哦。”
他对法国人说“请不要跳下去。”
他对德国人说“跳下去,这是规矩。”
他对俄国人说“最后一个伏特加酒被冲走了,现在跳下去还来得及。”
(ポリネシア人は何もいわなくても勝手に飛び込む)
(对波利尼西亚人什么都不用说,他们自己会跳下去)
中国人には「その辺においしそうな魚が泳いでますよ」
韓国人には「もう日本人は飛び込みましたよ」
北朝鮮人には「飛び込めばこのまま亡命できますよ」
日本人には「他の人はみんな飛び込んでますよ」
日本人のサラリーマンには「海に出張だ」
日本の学生には「飛び込めば単位もらえますよ」
大阪人には「タイガースが優勝したというニュースが入りました!」
他对中国人说“那边游着的鱼儿好像味道很鲜美哦。”
他对韩国人说“日本人已经跳下去了哟。”
他对北朝鲜人说“跳下去你就能逃走了哦。”
他对日本人说“别人都要跳下去了哦。”
他对日本白领说“到海里出差去。”
他对日本学生说“跳下去就有学分了哟。”
他对大阪人说“刚得到消息,阪神老虎队获胜了!”
象というと
说到大象
イギリス人はインドに出かけて象をしとめて剥製にし、大英博物館に寄付する。
英国人会去印度捕捉大象,并将其制成标本捐赠给大英博物馆。
フランス人はまず、パリ動物園に行ってそこに象がいなければ象の存在を否定します。でも、象がいれば短いしゃれた本を書く、題名は「象と恋」である。
法国人会先去巴黎动物园,如果那里没有大象,他们会对大象的存在进行否定,如果那里有大象,他们会写一本短小而风趣的书,名为“大象与爱情”。
ポーランド人は、「象とポーランド問題」について熱烈な演説を行い、愛国同盟を結成する。
波兰人会就“大象与波兰问题”进行热情的演说,并结成爱国同盟。
ドイツ人は、象についての七冊の本を書く。「象の解剖学」「象の生理学」「象の起源」「象の心理学」第五巻は「文学と芸術における象の位置」第六巻は「象の形而上学」で、そのうちの一章は「象とカントの提言的命令」第七巻は特に力作で「疎外された世界における象」というテーマである。
德国人会写出七本关于大象的书。前面几本书书名为《大象解剖学》、《大象生理学》、《大象的起源》、《大象心理学》、第五本为《谈大象在文学及艺术领域的地位》,第六本为《大象形而上学论》,其中的一章内容为“大象和康德的建议性命令”,而最后一本书则属力作,书名为《象在被孤立的世界中》。
オーストリア人は愛らしく哀愁をおびた本を書く。その題は「ウィーン ブルグ劇場の年老いた象の追憶」だという。
据说奥地利人会写一本充满哀愁却又令人怜爱的书,书名为《维也纳·布拉格剧场中年迈大象的一段追忆》。
「象について」という論文を課されたところ、
如果让各国人写一篇“关于大象”的论文,
フランス人とイギリス人は早速動物園で象を観察し、それぞれ「象の恋愛」「象飼育の収益性」という論文を書いた。
法国人和英国人会马上前往动物园观察大象,分别写下内容为“大象的恋爱”“大象饲养的收益性”这两篇论文。
ドイツ人は図書館に行って万巻の書を読み、「象の本質」という論文を書いた。
德国人会去图书馆饱读诗书后,写下名为“象的本质”的论文。
日本人は図書館に行って万巻の書を読み、「ドイツにおける象本質論の系譜」という論文を書いたという。
而日本人据说也会去图书馆读很多书,不过完成的论文题目为“德国关于大象本质论的源流”。
象を見て、
看到大象,
フランス人は「象は、この巨大な体で、どうやってセックスするんだろうか」と思った。
法国人会想:“象身体这么大,如何行云雨之事呢?”
アメリカ人は「象を、ビジネスに生かすにはどうすればいいだろうか」と思った。
美国人会想:“如何挖掘大象的经济效益呢?”
日本人は「象は、日本人のことをどう思っているだろう」と思った。
日本人会想:“不知道大象是怎么看日本人的呢?”